モーリス・メルロ=ポンティは、身体論を唱えたフランスの哲学者です。
この記事では、「身体論」「両義性」といったメルロ=ポンティの思想をわかりやすく解説します。
- メルロ=ポンティの主な思想
- メルロ=ポンティの思想を現代社会で生かす方法
- メルロ=ポンティのおすすめ入門書
メルロ=ポンティの生涯
メルロ=ポンティは、1908年にフランスのロシュフォールで生まれ、18歳の時に高等師範学校に入学しました。
その後、21歳の時にエトムント・フッサールの講義を受けたことをきっかけに現象学を学び初め、37歳の時に主著『知覚の現象学』を発表しました。
メルロ=ポンティは1961年に53歳という若さで死去してしまったため、執筆中であった大著『見えるものと見えないもの』は未完の書となっています。
メルロ=ポンティの主な思想
身体論
「身体論」とは、従来の西洋哲学で軽視されてきた人間の「身体」の重要性を見直す考え方を言います。
従来の西洋哲学では、人間の精神と身体は別物であり、身体は机や木などと同様、単なる物質にすぎないと考えられてきました。
そして、哲学者たちは「主体」である人間の精神によって、「客体」である世界を明らかにしようと試みてきました。
しかし、メルロ=ポンティは、人間の身体が他の物質とは異なり、完全な客体になることはないと主張しました。
たとえば、テーブルに置かれたブドウを想像してみてください。
この時、ブドウを見るためには、そもそも自分の「足」が動いてテーブルの近くに移動し、「首」が動いてブドウを見られる状態になる必要があります。
つまり、「ブドウを知覚する」ためには、「目」はもちろん、「足」や「首」といった身体が主体的な役割を果たす必要があるのです。
メルロ=ポンティは、身体は精神に従う単なる客体ではなく、主体的な側面も併せ持っているのだと考えました。
そして、精神が優位であった西洋哲学の考え方を見直し、身体が主役となって世界を理解していこうという新たな考え方を主張しました。
両義性
「両義性」とは、物事の意味が常に多面的であり、一つの明確な意味には収束しないことを言います。
簡単に言うと、物事には常に複数の解釈が成り立つということです。
メルロ=ポンティは、人間の知覚が両義的であると主張しました。
たとえば、道端に落ちている石を触ると、触覚によってその石の温度や質感を知覚することができます。
この時、石の温度や質感は完全に客観的な情報とはいえません。
なぜなら、私の体温が高い時と低い時では石の温度の感じ方が異なりますし、私の手が乾燥している時と潤っている時では石の質感の感じ方が異なるからです。
つまり、私が知覚できる石の情報は、私の身体の状態によって変化するということです。
メルロ=ポンティによれば、人間の知覚は両義的であり、「身体が外部へ関わりにいく」という能動的な側面と「身体が外部から情報を受け取る」という受動的な側面があります。
さらに、メルロ=ポンティはもう一歩進んで、両義性は人間の根本的な特徴であるため、個々の身体という主観的な情報を無視して、完全に客観的な世界を明らかにすることはできないと主張しました。
他の思想との関係
現象学
メルロ=ポンティは、「現象学」の哲学者であると言われています。
現象学とは、人間の先入観を排除することにより、人間の内面に起きる現象そのものを直接調べて考察するという思考法です。
ポストモダニズム
メルロ=ポンティは、主体と客体の間の相互作用を主張し、人間の両義性を主張しました。
この考え方は、後のポストモダニズム思想に影響を与えています。
ポストモダニズムとは、絶対的な一つの正解を求めるのではなく、たくさんの相対的な考え方を認めようとする哲学です。
実践!メルロ=ポンティの思想を現代社会で生かす方法
無意識な身体の動きに注目する
自転車をこぐ時や、パソコンのキーボードをタッチする時など、私たちの日常には頭を使わずに身体を動かしている行動がたくさんあります。
こうした無意識な身体の動きにあえて注目してみると、「自分の身体が自分のものである」という感覚を持つことができます。
色々な悩みで自分の心を見失ってしまいそうなときに、ぜひ試してみてください。
メルロ=ポンティの思想を学びたい方へおすすめの入門書
まとめ
この記事では、「身体論」「両義性」といったメルロ=ポンティの思想をわかりやすく解説しました。
メルロ=ポンティは、人間の精神を過度に重視してきた従来の西洋哲学を批判し、人間の両義性を踏まえた新たな哲学を考えました。
データやエビデンスに基づく「正解」が重視される現代社会ですが、人間がそもそも両義的な存在だという主張には、少しハッとさせられるものがありませんか?
この記事をきっかけに、哲学に興味をもっていただけたら嬉しいです。