西田幾多郎は、明治から昭和の時代を生きた日本を代表する哲学者です。
この記事では、「純粋経験」や「絶対矛盾的自己同一」といった西田の思想をわかりやすく解説します。
- 西田幾多郎の主な思想
- 西田幾多郎の思想を現代社会で生かす方法
- 西田幾多郎を学ぶ方におすすめの入門書
西田幾多郎の生涯
西田幾多郎は明治維新直後の1870年に現在の石川県で生まれました。
西田は裕福な家庭の出身でしたが、若い頃に兄弟や自分の娘を亡くすなど、苦難の青年時代を送りました。
その後、20代から30代は座禅に打ち込み、禅の思想にもとづいた日本独自の哲学を模索しました。
西田幾多郎の主な思想
純粋経験
「純粋経験」とは、あらゆる先入観を排除した状態で、物事をありのままに経験することをいいます。
たとえば、私たちは目の前に広がるきれいな海を見るとき、その美しさに圧倒されることがあります。
一般的な西洋哲学では、「主体」と「客体」を区別して考えます。
つまり、「私」という主体が「海」という客体を見ているという世界観です。
一方で、西田の哲学では、物事は本来、主体と客体が一体的に交じりあった状態(=純粋経験の状態)で存在していると考えます。
そして、「主体と客体」という区分はあくまでも人間の認識によって純粋経験が分化したものにすぎないと考えます。
つまり、私たちがが海の美しさを感じているとき、最初に「美」という純粋経験があり、それが「私」という主体と「海」という客体に分化しているということです。
絶対矛盾的自己同一
「絶対矛盾的自己同一」とは、一見すると矛盾しているように見える2つの要素が、実はより高いレベルで統一されている状態のことです。
たとえば、コーヒーが「熱い」ことと「冷たい」ことは一見矛盾しているように見えます。
しかしよく考えると、熱いコーヒーは少しずつ冷めていくので、最終的には「冷たい」という状態に向かっているとも言えます。
このとき、一杯のコーヒーの中に「熱い」と「冷たい」という矛盾した性質が共存していることで初めて、「熱いコーヒー」という存在が成り立っています。
このように、矛盾する要素同士がより高いレベルで統一されている状態が「絶対矛盾的自己同一」です。
場所
「場所」とは、すべての存在が自己を表現する根源的な領域のことをいいます。
物理的な空間のことではなく、あらゆる存在が生まれ、別の存在と関わり合うための基礎となるもののことです。
西田は、何かが存在するための場所は「絶対無」であると主張しました。
西洋哲学では、「無」とは「存在しないこと」を指します。
一方、西田の言う「絶対無」は、これから色々な存在が現れる可能性を持つ、豊かな「無」です。
あくまでもイメージですが、西洋哲学の「無」は閉店後のお店で、「絶対無」は開店前のお店のような感じです。
知と愛
西田は、「知は愛であり、愛は知である」と主張しました。
人は対象を知れば知るほど愛するようになり、愛すれば愛するほど知りたくなります。
誰かを好きになったら、その人のことをもっと知りたいと思いますよね。
そして相手の良い面も悪い面も知っていくほど、その人のことをより深く愛するようになります。
西田は物事を理解するためには、その対象を愛することが重要だと考えたのでした。
他の思想との関係
西田の哲学は、「禅」の考え方を取り入れた日本独自の哲学ですが、その一部にはフランスの哲学者アンリ・ベルクソンやドイツの哲学者ヘーゲルの影響が見られます。
ベルクソンは、人間にとっての時間は主観的なものであると考え、私たちは過去や未来が溶け合う「持続」を生きていると主張しました。
ヘーゲルは、相反する二つの要素が互いに関係し合い、より高い次元で統合されるという「弁証法」を主張しました。
実践!西田幾多郎の思想を現代社会で生かす方法
「嫌なもの」をポジティブに見る
西田の哲学では、物事の悪い面を「単なる悪」とは考えず、良い面の裏返しであると考えます。
人生にはたくさんの嫌なもの・ことがありますが、私たちはそれらの嫌な物事をただ嫌い、回避しようとしがちです。
しかし、たとえば虫が土に栄養を与えてくれるように、一見すると「嫌なもの」にもポジティブな側面を見つけることができます。
世界のすべての「嫌なもの」をポジティブに見ることができれば、人生が幸せになりそうですね。
西田幾多郎を学ぶ方におすすめの入門書
まとめ
この記事では、「純粋経験」や「絶対矛盾的自己同一」といった西田幾多郎の思想をわかりやすく解説しました。
西田の哲学は、禅の考え方を取り入れた「日本の哲学」であるため、私たち日本人にも馴染みやすいのではないかと思います。
この記事をきっかけに、哲学に興味を持っていただけたら嬉しいです。